いじめについて
久々。
小室圭さんという方がいじめられている。
いじめている側はこれをいじめと理解していない。
まさに子どもたちが誰かをいじめるのと同じ構図。
人間は、ミスをする。人前に出れば、ミスをしたことが公になる。
人前に出なければミスをしてもばれない。
人前に出ず、ミスをし続けつつ、人前に出た人のミスを糾弾する人々が、いじめの主犯である。
彼らはそれを娯楽として消費している。飽きれば次に行く。
彼らの大切な人々も、ふとしたきっかけで、他者の娯楽として、いじめの被害にあう。彼らはそのことも理解した上で、他者をいじめているのだろう。
大変不愉快な事実である。
我々は、「人は生きているだけで誰かを傷つけている」という前提に立つべきだ。自己正当化をやめよう。
自分の浅はかな行動が誰かを傷つける。自分の正義は考えが浅いのかもしれない。一旦立ち止まるべきだ。
自分がどう思うかより、相手がどう思うか。自分の納得より、相手の納得。こういう姿勢で全員が行動できれば、傷つく人々は減っていく。
諦めるのは簡単だ。「世の中そんなもんだ」と思考停止すれば話は終わり。
そして、自分の大切な人が傷ついたとき初めて改善を望む。それは、想像力の欠如である。
人は、生きているだけで他人を傷つけている。あなたが信じる正義は、本当に正しいのだろうか?
愚痴について
愚痴についてしばらく考えていた。
必要なものなのか、なくしたほうがいいのか。
愚痴ることによってスッキリするという。それは分かる。
ただ、愚痴る=言葉にして出すことにより、思いが補強されてしまう。なんとなく気に入らないといった相手のことを大嫌いになる。
そうして、イライラが増す。スッキリしない。
なら愚痴なんて言わないほうがいいし、聞かないほうがいい。そんな風に考えてみた。
同時期に考えていたのは、ネット上のヘイトコメント。
これをまともに扱うべきか、無視すべきか。
あらゆるニュースが「炎上」していて、謝罪を要求されるケースもある。
一体誰に何を謝っているのか。
2ちゃんねるは、ヘイトコメントに溢れる掲示板だが、そこにおいて「荒らしは放置。荒らしに反応したら、あなたも荒らし」というようなルールがあった。当時僕は、全くその通りだと感じていた。荒らしはもめることが目的なので、反応するというのは火に燃料をくべるようなもの。
翻って現代。皆が荒らしに反応しまくっている。小さな火種をやたら大きくしてしまっている。
誰もが皆、心に闇を抱えている。不満を持っている。表に出したい時もあるだろうが、ぐっと我慢している。ネガティヴな感情を表に出すことは、責任を伴うから。反発を覚悟しないといけないから。
愚痴やネット上のヘイトコメントに共通するのは、「責任が伴わない」ということ。誰かを傷つける意見を表明しておいて、自分自身は傷つきたくないと、安全な場所に逃げ込む。
だから、結論から言えば、僕は愚痴も、ネット上のヘイトコメントも好きではないし、あまり関わりたくない。
だったら今なぜわざわざそのことをネットに書き込んでいるのか。勿論、賛同する人が出てきて、世の中がちょっと良くなればいいと思ってるからだが、それは愚痴る人やヘイトコメントを書く人も多分同じだろう。
これについては、もう少し考えて、次回書く。